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  • 日本庭園の石組と花

    ①美しかった日本の風景

    「美しかった」と過去形で書いた。
    日本は島国だから海岸線が非常に長い。
    その海岸線のかなりの部分がコンクリートで埋められてしまった。河川の両岸もコンクリート。山間部の谷には多くのダム。山には高圧送電線の鉄塔が林立している。小山の上には電波塔。都市部では高層ビルが乱立している。複雑な道路網と、道路に沿って立ち並ぶ電柱と張り巡らされた電線。

    原生林も伐採され、建築用木材として杉檜などが植林されてしまった。その植林地も、海外からの安い木材に押され、経済的理由で放置されている所が少なくない。遠目にはグリーンに覆われてはいるが、中に入るとひどく荒れているのがよく分かる。

    日本は島国であり、かつ山岳国でもある。四季がはっきりしているので、季節の移り変わりがよく分かる。雨が豊富で植物が良く茂る。日本は南北に長いので、気候風土も多様。

    かつての日本は、どこにいても美しい風景に充ちていたと思われる。文学や絵画に古くからその情景が描写されていた。特に江戸末期、庶民の間に人気のあった「浮世絵」に風景画・名所絵などの一大ジャンルがあった。有名なのが歌川広重の『東海道五十三次』、葛飾北斎の『富嶽三十六景』など。風景・景観が美しく、かつ重要であったことを示している。

    誰でも幼いころ育った場所の風景・景観が心に焼き付いている。故郷を離れると、それが郷愁としてよみがえる。一生その場所で過ごせば、見慣れてなんとも思わなくても、離れるとその風景・景観の価値を思い知らされる。

    冒頭に書いた通り、日本のどこにでもあった美しい景色は、今はかなり失われてしまった。その契機は1945年の日本の敗戦であろう。日本は無条件降伏し第二次世界大戦は終結した。まさに日本人の持っていた価値観は180度転換してしまった。日本はその後、経済復興に重きをおき、短時間にそれを成し遂げた。その業績を称賛する向きもあれば、「エコノミック・アニマル」などと揶揄されることもある。日本人はなりふり構わず働き、その経済活動故に、美しい山河も海岸線もコンクリートで固めてしまった。

    人は美しさを求める。「花鳥風月」、「人体」そして「風景・景観」。日本でもこれらをテーマとする文学や絵画での表現、芸術は独自の発展を遂げていた。

    しかし、日本列島は災害も多い。地震、津波、火山の噴火、台風、大雪、大雨に伴う河川の氾濫、土砂崩れ。ありとあらゆる災害が年間を通じて襲ってくる。それ故、自然を恐れ、敬い、感謝する気持ちを失わなかった。
    さらに、日本は山岳国故、国土の開発可能面積は極めて少ない。それ故、平野部には人がひしめき合って暮らしていた。

    江戸時代、鎖国政策を取っていたので海外との文物の交流は殆ど閉ざされていた。それでも、文化的にも経済的にも豊であった。それは「もったいない」という産物に対する徹底利用と、「リサイクル」がそれを成さしめていたのであろう。

    都市部でも少し郊外へ出ると美しい風景が広がっていた。あらゆる階層の人たちが、花見や名所見物を楽しんだ。そしてどんな所にも祭りがあった。着飾り、特別な料理を楽しんだ。日頃の生活がどんなに質素で苦しくても、満たされる特別な日は必ずあった。

    日本の風景・景観はかつてどのような場所であっても美しかった。これが人々の心を満たしていたのではなかろうか。
    それ故に、庶民は特別な景観としての「庭園」を造る必要などなかった。生活の場としての広場、つまり「ニワ」があればそれでよかった。

    田園地域では必要な植物は家屋の近くに植えられた。それがまた美しい景観となった。都市部では、鉢植えを楽しんだ。それが独特の園芸文化を形成した。江戸末期にイギリスからやって来たロバート・フォーチュンはその園芸文化の豊かさに驚いている。



    ②庭園を必要とした支配者階級

    人類発生以来、いかなる民族も集団を作ってきた。常にその集団にはリーダーがいただろう。やがて農耕時代になり、国家が形成されてくるとリーダーの立場はより強固になり、軍事を伴う支配者階級が確固たるものとなる。
    建国神話による神の末裔である王。王は強大な力を持つと共に、その地位はいつも狙われる運命にある。命さえ狙われる。その血族もしかり、重鎮も同じ。その安全のために、堅固に囲まれた塀の中で暮らさねばならない。特に女性は、その塀の外に出る機会が著しく少なくなってしまう。
    つまり、美しい風景・景観から遠ざけられてしまう。「見えない」、「見られない」。高い身分にあり、本来楽園に暮らすべき身が、牢獄に幽閉されたような状態になってしまう。

    「ニワ」は本来儀式や作業の場であり生活の場であった。したがって「平ら」で何もない。これはあらゆる文化で同じではなかったかと推察している。

    神の末裔としての王族や貴族は、神と同等の環境に暮らしていなければならない。当然の帰結ではなかろうか。宮殿と庭園、内と外との環境を理想化し、住む環境を「パラダイス」にする必要があった。その形態は、その宗教・文化によってそれぞれであったろう。また宮殿・庭園は彼らの祖先である「神」との接点にもなったであろう。


    ③伝統的なの日本庭園

    多くの日本人も外国人も日本庭園と聞けば、まず、京都の寺で見かける「石組主体の庭園」を思い浮かべることであろう。続いて、「茶庭」、あるいは広大な「回遊式庭園」であろう。
    「石組主体の庭園」は抽象的で哲学的。石と白砂、苔が主体で、植物も刈り込まれた灌木が多い。借景を伴う場合も少なくない。
    この形式の庭園は禅宗の内、臨済宗の寺に造られることが多い。もう一つの禅の宗派、曹洞宗では自然景観を重んじるためか、庭園が造られることは少ない。

    茶道は桃山時代の千利休を祖とする。独特の美意識を持ち、今日の日本人の美意識にも今なお大きな影響を与えている。簡素を旨とする。「茶室」と共に設えられる「茶庭」も茶道の要求するところの形式に従い、厳格に造られる。しっとりとした緑に覆われた「市中の山居」(都市の中に見出される静寂な境致)を理想とした。

    「回遊式庭園」は「自然式景観」と「茶庭」を組み合わせた複雑で大きな庭園。江戸初期の修学院離宮桂離宮から始まり、江戸時代各大名が競って造った。池や流れを配し、重要ポイントに茶室をいくつか造り、それを園路でつないで巡る。見どころがいくつもあり、かつ四季を楽しみ、しばしば園遊会も持たれる。
    膨大な土地と資金を要するので、「回遊式庭園」は支配者階層でなければ造り得なかった。明治時代になって身分制が崩れると、財を成した企業家がこぞって造るようになった。

    これらの「伝統的な日本庭園」は「西欧の庭園」と比較して著しい違いがある。その一つは「自然風景的」で「幾何学的」に造られることが殆どない。これは、宗教観・世界観の違いに寄るのかもしれない。

    今一つは、極めて花が少ない。花木は植えられても草本類や球根類の花が殆ど植えられていない。僕はかつて、「日本庭園に花を植えるのは邪道だ!」と言われたことがある。この理由をいくつか考えてみよう。

    1・・日本庭園の伝統が築かれたのは、鎌倉時代以降。特に茶道が起こった桃山時代以降に庭園が形式化され、明治時代以降それらが「伝統的」とされた。

    2・・鎌倉時代以降は武士が支配する社会であり、男社会。そのバックボーンとなった宗教が禅宗。武士は戦士であるからいつ死ぬかもしれない。それが、移ろい変化する環境を嫌ったのかもしれない。変化の少ない石や常緑樹、それも一定の形に刈り込まれた樹木を好む一因であったかもしれない。
    一方で、華やかで絢爛豪華を好む向きも武士社会にあった。特に、桃山時代の障壁画などはそれをよく表している。

    3・・桃山時代以降、「茶道」は武士社会の教養であると共にステータスにもなった。それが一つの美意識と価値観を決めていた。実際は非常に高価でもあるにかかわらず、「茶室」や「茶庭」は極めて質素に造られた。華やかさを極端に避けた。茶室の「床」に活ける一輪の花を際立たせるために、茶庭に植えられるのは常緑樹が主体になったとさえ言われている。

    4・・植えられる樹木が常緑樹主体となると、どうしても影ができやすい。日本と西欧との決定的な環境の差は、その緯度に起因する。日本は西欧に比べてかなり南に位置する。従って、春分から秋分にかけての太陽の軌跡は角度が高い。樹木の下は終日、陰となり日照が不足する。一日中、日の当たるような場所は太陽光が強すぎて、太陽光そのものと乾燥によって、著しく葉を痛める。したがって、影の部分では太陽光不足で草本類は軟化し倒れやすい。太陽光が強い部分では育つ物は限られてくる。
    西欧では太陽の照射角度が低く、しかも日照時間が長い。影が少なく適度な太陽エネルギーがまんべんなく当たるので、木々の下にある草本類もよく育つ。同時に花もよく咲く。


    日本の「伝統的庭園」には花が少ないが、決して日本人が花が嫌いなわけではない。草本類は多く植木鉢に植えて楽しまれた。庭を造ることのできない庶民はこぞって鉢植えを楽しんだようだ。それがロバート・フォーチュンをも驚かせた日本の園芸文化のベースともなっている。しかも、専門化された栽培技術をも生み出している。

    鎌倉時代以前の庭園遺構は殆どない。武士社会はそれ以前の貴族社会を徹底的に破壊してしまったようだ。まったくそれ以前の庭園の状況を知ることが出来ないかといえばそうでもない。文学表現として残されている。1千年以前、平安時代末期に紫式部によって書かれて『源氏物語』(世界最古級の長編小説ともいわれている)には、「庭園」が多く描写されているようだ。源氏物語を絵画化したのが「源氏絵」でそれを今も見ることが出来る。その場面場面に庭園が描かれ、多くの花も描かれている。特に秋の花や、赤松に絡まる藤の花などが目立つ。勿論桜も梅もある。
    平安時代末期、約千年前の日本の庭園には、すでに数多くの花々が植えられていた。決して日本の庭園に花がなかったわけではない。今日、伝統と呼ばれている庭園のさらに前には花があったのだ。


    ④日本庭園の「石組」

    日本庭園の特徴の第一は、自然石を使った「石組」であろう。「石組」と聞けば京都の禅寺の庭園を思い浮かべる方が多いかもしれない。『源氏物語』が書かれた平安時代末期の約千年前、『作庭記』という作庭マニュアルのような本がすでに書かれている。『作庭記』には石組の方法について多くのページが割かれている。多くは自然風景を模写する方法であるが、石組を重要視していることが分かる。さらに石組みの禁忌についても多く書かれている。石組の扱いを間違うと、その家の主に災いが持たされるという。この本の主題はどうもここにあるようだ。
    正しい石の扱いを習得するためには、経験を積んだ師匠に教えを乞うか、あるいは『作庭記』をよく読んで正しい知識を身に着けねばならないと。

    なぜ、石に禁忌が多いのか。日本には古くから石や岩に神が寄り付く、という伝統があるからだ。日本の神々は優しい恵みをもたらす神々ばかりではない。恐ろしい災いをもたらす神々も少なくない。むしろその両方を兼ね備えてるといった方が良いかもしれない。したがって、恐れ敬い祭る。
    神が寄り付く石や岩の集合体を「磐座〈イワクラ〉」という。石をめぐらして神の寄り付く場所を結界しているのを「磐境〈イワサカ〉」という。石・岩は神の領域なのだ。


    世界のいたるところに「巨石文明」があったとされているが、その実態はいまだ解明されていない。現代の強力な重機を用いても動かしえないような石を、何らかの意図を持って動かし組み合わせたとしか思えない巨石があまた存在する。それが設置された時代も方法もその背景となる宗教も、まるで分らないから、アカデミックな学問からは除外されてしまっている。勿論、興味を持つ研究者も少なくないから、様々な推測が発表されている。「宇宙人説」や「反重力装置設」もあるが、どれも確証には至ってはいない。
    日本にもこのような「巨石文明」が存在した。そのように思える石や岩が日本国中いたるところに存在する。
    また、ある方向から見ると「三角形に見える山」あるいは「円錐形に見える山」もいたるところにある。形が際立っているのでよく目立つ。このような山のほとんどは「神の宿る山」とされている。今もそのような山を「神体山」として祭っている神社も少なくない。多くの「神体山」には山頂や中腹に石・岩がある。それらを「磐座」という。「円錐形の山」を超古代の「ピラミッド」とする考え方もあるが、これも今のところよく分からない。ただ、それらの山や石・岩がいたるところにあることは事実だし。ある法則で一定方向に並んでいたり(レイライン)、ある種のネットワークがあったのではないかと思われるものも少なくない。しかしまだまだ研究は足らない。

    日本の神道では、これらの山や石・岩を神として祭っていた痕跡があまたある。また今も祭られているのも少なくはない。
    先に日本の美しい風景・景観について書いた。その風景・景観の中にはほとんどの場合、「円錐形の山」や「磐座」が含まれている。人々の暮らしの近辺に、それはあったと思われる。

    特徴ある日本庭園の「石組」の源泉は「磐座」ではないかという考えがある。僕もその立場でいる。この数年、「磐座」探索を重ね、かなり沢山の「磐座」を見てきて、その思いはさらに高まった。それはその形からだけではない。人の深層心理に石・岩と何か呼応する波動のようなものがあるようにも思う。僕自身が石を組み、そして「磐座」と接することによって得られたインスピレーションでもある。実証は難しい。地球や宇宙と呼応する何か。それは先にも書いたが「ネットワーク」という言葉で表してもいいように思う。
    インターネットの時代、「ネットワーク」は全世界とつながっている。得ようと思えばあらゆる情報が手に入る。しかし「人のネットワーク」では、情報止まりといっていい。言葉を多く使う故、人の直観的な深層までは至らない。
    「石のネットワーク」はすでにほとんどの人の感覚からは消えてしまった。しかし、一部の人の中に、かすかな波動を感じている者がいるのかもしれない。そういう人たちが、石・岩に心惹かれる。「山や磐座」と呼応する石を組む。それが地球や宇宙ともつながる。誰もそんなことを意識して石を組んではいないかもしれないが、そのように思える「石組主体の庭園」が少なくない。
    僕自身、石に惹かれ石を組む、その理由が自分でもよく分からない。分からないから、上記のように感じる。
    日本庭園の石組は単なる表現形式だけではない。何かとつながろうとする石による表現ではなかろうか。
    それ故、石組を鑑賞する者も何となくそれを感じる。通常は形式論で説明されるが、その範囲では収まらない何ものかを感じて、何となく感動するのではないだろうか。従って、千差万別の解釈も成り立つ。それ故に面白い。

    日本庭園の石組周辺は、ほとんど無彩色。白砂の白と苔のグリーン程度。それが伝統であるとして、ほとんど誰も疑問を示さない。むしろこのような空間に色とりどりの花を植えれば、雑然として散漫になり、それこそ「邪道だ!」と言われかねない。しかし、だれも試した者がいない。実際はどうだろうか。


    ⑤磐座の周辺に花はあったか


    僕は今までにかなりの数の「磐座」を見て回った。ほとんどの「磐座」は樹木に覆い尽され、樹海の底に沈んでいる。落ち葉がうず高く積り、時には「磐座」の上にも木が生えている。薄暗く陰鬱な場所が少なくない。このような姿が「磐座」本来の姿であろうか。木の生え方などから推察すると、決してそうではあるまい。
    「磐座」のある山の多くは「里山」。人の営みの近く。里山は周辺住民の入会地として燃料用の薪などを供給していた。定期的に伐採される。切り株から再び芽吹いて、20から30年周期でそれが繰り返される。決してなくなることはない。伐採されると光が入り、山菜などが取れる。それと共に花の咲く山野草も生える。
    焼畑もされていたかもしれない。営々と続けられていた営みが、経済効率故に立ち消えてしまった。薪は石油・ガス・電気に変わってしまい、畑は機械化しやすい平地に移ってしまう。このような移行が起こってせいぜい50年程度だと思う。「磐座」周辺の木を見ているとその程度の樹齢だと思われる。ひどい場合は、「磐座」周辺まで杉・檜の植林が成されていることがある。「磐座」は近隣の住民の脳裏からも消え去って、ただの邪魔物となってしまった。
    「磐座」がネットワークとして機能するためには、見通しが利かねばならない。また「磐座」が宇宙(それは神と呼ぶべきかもしれない)とつながるためには、太陽や月星の光が降り注いでいなければならない、というのが僕の想い。そのような条件を満たすためには、樹木に覆われ樹海に沈んでいてはならない。
    「磐座」に太陽光が降り注いでいるなら、そこは山野草による「お花畑」になる可能性さえある。僕は夢想する「花に包まれた磐座」を。


    ?石組と花・・・原初の「ニワ・庭・庭園」へ

    そんな想いから、昨年(2013年)石組を主体とする庭に花をいっぱい植えてみた。







    (写真は全て和歌山の「緑風舎庭園」。春の花の始まりの季節である4月8日に撮影した。庭はリメークで、石はほとんど全てこの場所にあった。石も樹木も花々もまだ落ち着いていないが、もう数年すると落ち着いてくるものと思う。)

    「緑風舎庭園」では大胆な試みをしている。「石組」は東西南北の方向性だけを決め、図面も描かず、そこに有る物だけを使って、その時の直観にしたがって石を組んだ。ほとんど何も考えていないし、計画性もない。ただただバランス感覚だけで組んでいった。伝統的な形式的な「石組」は全くしていない。日本的なしっとり落ち着いた「侘び寂び」など微塵もない。
    そこに草花を植え付け、チューリップまで植えた。写真にあるように花の季節はド派手になる。夏は花はかなり減り、緑が増すはず。秋には紅葉の樹木もある。冬は草花もわずかな芽を残すだけかもしれない。若干の植え足しをすると、春また生命を謳歌する。

    僕は日本庭園の本来あるべき姿を模索してきた。正座して直視して静かに鑑賞するような庭ではなく、生命力にあふれ、いささか猥雑で、走り回ってその場を感じ、そして閉ざされた空間からはるか遠く、宇宙のかなたまで飛んで行き、天地とつながるような庭。このような場所で、音楽があり、ダンスがあり、祈りがある。人が集まり、火を焚き、そして食し飲む。そして語らい、つながりを深める。

    数千年前(縄文時代)、日本の「ニワ・庭・庭園」はそのような場ではなかったかと、磐座を見るたびに夢想する。

    (掲載写真は全て武部正俊撮影)





    【武部正俊オフィシャルブログ】
    「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」

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