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  • 僕は 幼いころから、訳も分からず物を集める癖があった。
    虫や石もその一つだった。別に分類して標本を作るわけでもなく、ただ集めていた。
    石も綺麗だとか、珍しいと思ったりすると拾ってきた。だから、ただのガラクタ。
    中学生の頃から昆虫採集のために山に登り始めた。やがて、虫はどうでもよくなり、山に登ることに夢中になった。
    10代後半から25歳ごろまでは、僕の生活は登山が中心といっても過言ではなかった。
    岩登りもした。日本でも最大クラスの岸壁を登ったこともある。
    当時の僕にとっては岩はロック・クライミングの対象でしかなかった。

    確か23歳ぐらいだったと思う、偶然のきっかけで庭を造り始めた。勿論、何の知識も技術もない。
    なぜだか「重森美玲」の庭に心ひかれた。コピーもしてみた。でも、なんだか自分の感性と合わない気がして、挫折した。
    しかし、石が何となく好きで、使う機会も多かった。石垣、石敷、石組、等々。試行錯誤の時期があって、大量に石を扱う機会も訪れた。その一つが、韓国・済州島(チェジュ)でのゴルフ場の仕事。チェジュは「三多島」と言われる。
    その三つは風と石と女。チェジュは火山島なので石の島。中央に高い山のある島なので風が強い。
    島の女性は家に籠らず外に出てよく働くので目に付く。ゴルフ場造成でも多量の石が出てくる。
    多くはマウンドの芯などとして使われたが、いくらでも有ったので、それをふんだんに使った。石組として、池や流れの護岸として、石垣として、ただゴロゴロと石を重ねた景観として、あるいは小石を一面にばら撒いたりもした。
    おそらく数万トン使ったともう。考えている暇などない。
    この作業が僕の感性を高めてくれた。益々、石に興味を持った。

    重森美玲の本などから「磐座、磐境」という言葉は知っていた。そして何となく、日本庭園の石組の元はそれらであろうと思っていた。でも、長らくそれらと出会う機会は訪れなかった。

    石組に強く惹かれているものの、日本庭園の伝統的石組に共感出来なかった。それで、我流を押し通した。我流で良いと思いつつも、何となくバックボーンがない。
    60歳を過ぎてからやっと、「磐座」に巡り会うことができた。
    規模は全く違うものの、僕の我流と、磐座に何となく共通項があるように思えた。
    それで「イワクラ学会」にも入会し、機会があるごとに磐座を見に行き、自分でも探索し始めた。
    磐座に巡り会って、僕の心底にある何ものかが溢れ出してきたような気がした。




    ヨーロッパ、北米の庭園(Garden)はいくつか見て回った。
    中国のは一度計画をしたが、急な事情で行けず、まだ実見ていない。
    本などで紹介されているものでは、中国、韓国の庭園もイスラム庭園もインドのものも一応チェックはしている。
    日本庭園と比較してみると、様々な様式はあるものの、日本庭園の特殊性が際立っているように思える。
    特に石の扱いが特に顕著に思える。

    日本は山岳国故に石を多く産する。かつ、地形が複雑なので石の種類もきわめて豊富。
    さらに多雨で急峻な河川も多く、川擦れした堅く色彩豊かな石も少なくない。
    それらの石のほとんどは加工を必要としない自然石。
    山石であれ川石であれ、自然石そのままを庭を造る材料としているのは、日本庭園だけではなかろうか。
    適度な大きさの自然石が豊富に産出するということが、石を重要視する要因に成ったのではなかろうか。
    特に、京の都を流れる鴨川には周辺の山々からいろんな種類の石が流れて来ていたことも忘れてはならないだろう。
    島国でかつ山岳の国。風光明媚な風景には事欠かない。
    名勝のほとんどには、石・岩・磐があり、景観構成に欠かせない一つの要因が岩石。

    世界最古の作庭指南書ともいうべき「作庭記」には、「四神相応観」という中国伝来の「陰陽五行説」を重視しているものの、まず石の扱い方から始まる。

    一、石をたてん事、まづ大旨をこゝろふべき也。

    で始まり、石による景観の造り方が延々と続く。

    最後に、「石をたつるにハ、おほくの禁忌あり。ひとつもこれを犯つれバ、あるじ常ニ病ありて、つひに命をうしなひ、所の荒廃して必鬼祇の住みかとなるべしといへり。」から始まる、石に対する禁忌が多く書き連ねられている。
    石の持つ重要さと共に、取り扱いに対する細心の注意を呼び掛けているようにも思われる。

    「作庭記」は平安末期の「橘俊綱」の作とされている。
    当時の貴族社会の建築様式や生活を色濃く反映しているものと思われる。
    紫式部」の「源氏物語」の書かれた時代とも重複し、後の「源氏絵」の描写にも「作庭記」の様式の反映が見られるかもしれない。

    枯山水」についてはすでに「作庭記」にも出てくる。

    5,一、池もなく遣水もなき所に、石をたつる事あり。これを枯山水となづく。
    その枯山水の様ハ、片山のきし、或野筋などをつくりいでて、それにつきて石をたつるなり。
    又ひとへに山里などのやうに、おもしろくせんとおもハバ、たかき山を屋ちかくまうけて、その山のいただきよりすそざまへ、石をせうせうたてくだして、このいゑをつくらむと、山のかたそわをくづし、地をひきけるあひだ、おのづからほりあらはされたりける石の、そこふかきとこなめにて、ほりのくべくもなくて、そのうゑもしハ石のかたかどなんどに、つかハしらをも、きりかけたるていにすべきなり。又物ひとつにとりつき、小山のさき、樹のもと、つかハしらのほとりなむどに、石をたつることあるべし。但庭のおもにハ石をたて、せんざいをうへむこと、階下の座などしかむこと、よういあるべきとか。
    すべて石ハ、立る事ハすくなく、臥ることはおほし。しかれども石ぶせとはいはざるか。

    とあるように、「竜安寺石庭」に見られるような抽象表現ではなく、景観表現の一環であったようだ。
    自然石を多く用いて、庭の景観表現を試みたこと自体、日本庭園の特徴ではないかと思うが、さらに、自然石を主体にした抽象表現へと進むと、この枯山水こそ、日本庭園の一大特徴であり、特殊性と言わねばならないだろう。

    抽象表現を試みた枯山水庭園の多くは、禅宗、それも「臨済宗」の禅寺で多く見られる。
    仏教的な「須弥山」や「三尊」などの石組みはそれなりに理解されるとしても、「蓬莱」や「鶴亀」は道教思想に基づくように思われる。
    「陰陽」表現など土着性を感じさせられるものもある。
    明らかに「山水」や「生々流転」を抽象表現したものも見られる。
    宗教的には何でも有という感じ。禅宗的宗教観が庭に現れているとも思えない。

    日本は、宗教的には何でも有の国。
    八百万の神々、仏教の仏たち、道教の象徴、キリスト教のイエスやマリヤ、ユダヤやイスラムの絶対神、ヒンズーの神々、何でも受け入れる。節操がないといえばそれまでだが、実に懐が深い。
    この節操のなさと懐の深さが、日本庭園の石組に現れていまいか。




    重森美玲は、日本庭園の源泉として、磐座、磐境と呼ばれている石組や、神池、神島などの祭祀空間の要素を取り上げている。

    岡山県倉敷市にある阿智神社は、その石組で知られている。
    重森美玲は「日本庭園史大系」第一巻において阿智神社の石組を下記のように考えている。

    「阿智神社の石組は、本殿に向かって右側に磐座的、磐境的なものを保存し、左側に鶴石組と亀石組と園(マゝ)を構成し、下部斎館付近に陰陽的磐座を保存している。
    既にこのように、一面において蓬莱思想を根幹とする亀石組のあることによって、阿智神社の石組は、最早ただ単に磐座磐境と見ることは出来ないのみか、明らかに庭園的存在であり、原始庭園として一考することができる。」

    として、特に本殿左側の石組群を庭園的石組と位置付けている。
    実績のあるカリスマ的日本庭園研究者が、庭園的と位置付けたが故に、その後も、この石組を庭園石組として解説されていることが多い。地元の磐座研究者に尋ねた時も「あの石組には神様は居ないから、磐座ではない。あれは庭園じゃ。」とあっさりと言ってのけられた。しかし僕は、阿智神社の石組を実見して感じたのは、やはり、磐座だとの思いだった。
    磐座を数多く見て回ると、人それぞれの見方、イメージで見ることが可能なことが分かる。
    下手に様式分析をしてしまうと、本来の意味を見失ってしまうのではないかと思えてならない。
    亀と思えば亀に見える石組はいくらでも有る。
    鶴や滝も同じ。むしろ様式分類をするよりも、全体を見通して感ずることこそ重要ではないかと思っている。

    阿智神社・鶴石


    阿智神社の石組は、1,940年(昭和15年)重森美玲によって調査され、上記のように、庭園的石組と結論付けられた。
    それまでにあった、磐座磐境説は一蹴されてしまった。(ここに掲載した写真は「日本庭園史大系第一巻からのコピーで、1,940年に撮影されたものか、1,973年の再調査のおり撮影されたものかは分からないが、重森美玲自身が撮影したものと思われる。)上の写真は「鶴石組」とされている。
    表土が流出してしまって、噛ましてある小石の状況がよく分かる。
    この石組は明らかに、人が造ったに違いない。

    阿智神社・鶴亀石組

    中央から右が「亀石組」、左が「鶴石組」。
    このような石組は、見方によっていかようにも解釈できるのではなかろうか。

    片野貴夫 著 「全部人体で確かめた[神代文字]言霊治療の仕組み」(ヒカルランド刊)で、この鶴亀石組に対する興味深い記述を見つけた。

    「倉敷の阿智神社の鶴亀という2つの石はカムロギ、カムロミのエネルギーを集める御神体でした。
    ここで「天津祝詞」を唱えたら猛烈な眠気に襲われ、ホテルに戻り3時間睡眠しました。
    若返りホルモン、メラトニンが出るようです。アチとは「あ」が天、「ち」が地のことで、天地神社という意味ではないかと思います。」

    僕にはこの感覚はまだわからないが、山上にあるこの石組の持つ力は理解できる。

    阿智神社・立石

    重森美玲はこの立石を「蓬莱石組」としている。
    このように分類してしまうと、かえって固定概念に囚われてしまう。
    石組を見る時は、このような囚われ方を排除し、各自の想いで真摯に見る方が良いのではないかと思う。

    阿智神社・滝石組

    山頂部にある本殿の裏側斜面にある石組。これも「滝石組」と決めつけている。

    阿智神社・陰陽石

    阿智神社は、「鶴型山」と呼ばれている小高い丘の上にある。その中腹にもこのような石組みがあり、山上のものよりむしろこちらの方が規模は大きいかもしれない。
    重森美玲は1,940年の第一回目の調査ではこの部分の石組を見つけていなかったようで、1,973年の調査で発見している。そして「陰陽石」としている。

    PICT0045

    (2,009年4月19日武部正俊撮影)


    「陰陽石」とされている同じ部分。これを陰陽と決めつけてよいのかどうか。
    重森美玲が説くように阿智神社の石組を「庭園石組」とするなら、鑑賞のための見る視点があるだろうと思う。
    しかし、それが散漫に思えてならない。
    磐座を見に行くと、人が見る視点というものが曖昧で、むしろそれを重視しているようには思えない。むしろ「天地のつながり」を重きにおいているように思えてならない。
    鶴形山は、まず「神体山」としての山があり、そこに「磐座」としての石組が成された。
    ここの石組はすべて人工と思えるが、いつ頃造られたかは定かでない。
    後の時代に神社が建てられ、磐座は忘れ去られてゆく。
    先に引用した片野貴夫さんの本にあるように「天地神社」と解釈する方が、本質をついているように思える。

    ただ、重森美玲が「阿智神社の石組は、最早ただ単に磐座磐境と見ることは出来ないのみか、明らかに庭園的存在であり、原始庭園として一考することができる。」と指摘したことも見過ごせない。
    このような「磐座石組」が鑑賞本位の「庭園石組」の元となっているように考えられる。




    磐座を見て歩くと、庭園石組として鑑賞対象になる様な石組も少なくない。
    その顕著な例をいくつか示してみよう。

    奈良県山添村に「神野山」は綺麗な円錐形の独立峰で、山腹から頂上まで大小さまざまな磐座があることで知られている。その山頂付近の磐座は小振りであるが実に美しい配置で組まれている。

    PICT0087

    (2,011年3月6日武部正俊撮影 以下同)


    神野山山頂にある磐座。石組みとしても実に美しい。
    このまま、禅寺の方丈南庭に移築すれば、「枯山水」で通りそうだ。

    PICT0078

    勿論、力強さも兼ね備えている。

    PICT0089

    展望台からの鳥瞰。神野山の山腹の巨大磐座から山頂の磐座に向けて、三方からの岩のつながりが確認されている。
    その多くは星座を地上に移したものという研究成果もある。

    熊本県阿蘇郡南小国町内ある「押戸石」も山の頂上部分にあり、見事な景観を成している。
    勿論この岩群の成因を天然自然とする説もあるが、僕には人の意思が感じられてならない。

    P1070594

    (2,013年1月30日 武部正俊撮影 以下同)


    P1070602

    P1070600


    長野県茅野市の「諏訪大社」の末社「葛井神社」は泉が神体。
    やや濁った水が滾々と湧きあがり、すぐ近くで再び地中に流れ落ちてゆく。不思議なパワーを感じる泉で、その護岸の石組が興味深い。

    PICT0112

    (2,010年7月31日 武部正俊撮影 以下同)


    鳥居は、いかにも素朴で極古い形態を残しているのかもしれない。

    PICT0115

    この護岸石組もいつごろ造られたのかは定かではない。護岸には関係がない上部の石組がいかにも庭園的。
    神泉の水面のざわめきと相まって、神秘性を醸し出しているようにも思える。


    「磐座」は単独の岩で構成されているものもあるが、ほとんどは複数の岩で構成されている。
    「岩組」あるいは「石組」といってよい。日本庭園の優れた石組には磐座的要素が含めれているように思われる。


    京都の「西芳寺」は、鎌倉時代末期から室町時代初期の禅僧「夢窓疎石」が造ったあるいは改修したとされる庭園で極めて有名。しかし、石が多量に使われた西芳寺庭園に、「影向石」と呼ばれている不思議な石の存在はあまり知られていない。
    西芳寺は苔寺とも呼ばれるように、一面苔生している。使われている石のほとんどに何らかの形で苔が付いているが、影向石にはなぜか全く苔が生えていない。黒々としていて、注連縄が巻かれている。

    PICT0214

    (2,010年2月14日 武部正俊撮影 以下同)


    影向石と共に、平天場の石、三角形の石等の構成が気がかり。

    西芳寺・影向石
    (日本庭園史大系第三巻より)

    PICT0216

    注連縄の巻かれた石は、他の石と明らかに石質も違う。黒々として艶がある。
    時々洗っている可能性もあるので、案内役のお寺の関係者に尋ねてみたが「注連縄は取り替えるが、洗うようなことはしていない。」との返事が返ってきた。近づいて確認することが出来ないが、緻密で堅く、それ故、苔も生えないのだろう。
    数冊の西芳寺庭園の解説書を読んでみたが、写真が掲載されていても、ほとんどこの石に対する説明はない。
    近くに「松尾大社」がありその裏山の神体山に巨大な洞窟状の磐座がある。
    松尾大社の磐座と関連があるのか、「松尾明神」の影向石と書かれていたのを読んだ記憶がある。

    PICT0219

    この辺りの構成は、先に紹介した阿智神社の陰陽石組と似ているようにも思える。

    PICT0222

    影向石の後ろには、二本股の杉の巨木があり、神木として注連縄が巻かれている。
    共に神の依代なのであろう。松尾大社の磐座と何らかの関係性を示しているのであろうか。

    西芳寺庭園はこの影向石周辺を核として出来てきているように思えてならない。


    聖地はなぜか山に多い。世界の最高峰の集まるヒマラヤも「神々の座」であって、本来人の近づけない場所であった。キリスト教の聖地も山や岩盤の上が多いようだ。仏教寺院も「・・・山・・・寺」とまず「山号」がつく。
    神道でも山や磐が本来の神体だった。

    旧約聖書にも「岩」という言葉が日本語訳で111回出てくるようで、さまざまな意味と含みがあるらしい。
    最も多い用例は神を岩と呼び、「岩なる神」 「救いの岩」などと表現している。

    古来、巨石を用いた建造物、モニュメント的な物も少なくない。エジプトのピラミッド、イギリスのストーンヘンジ、ストーンサークル、イースター島のモアイ像、日本の磐座等々。

    そのような場が何らかのエネルギーの集まる場所なのであろうか。神秘体験のまったくない僕にとっては、この辺りがどうも理解しがたい。そして、なぜか「石・岩・磐」に心惹かれる。このような心情を持つ者は、人口比率としては少ないかもしれないが、確実に居るように思える。
    なぜこのような所に石を据えてあるのかと思えるような石や石組をよく見かける。
    明らかに何らかの意思と目的とを持って据えられている。

    「石→意思→意志→医師」、全くの語呂合わせだが、このようなつながりさえ考えさせられる。
    石は「薬石」という言葉や、「岩盤浴」にもあるように、治癒にも使っていたようだ。

    一方、石や岩を実際に扱って来て単純に思うことは、それは、「硬くて重い」しかも「加工には熟練した技術」が必要で極めて困難だということ。「運搬にも多大な労力」を必要とする。ということは、人の力をまとめなければ決して石や岩は動かないし、積み上げたり組んだりはできない。古代から現代に至るまで、これは変わることがない。このことは、「力の象徴」あるいは「権力の象徴」をも表してはいまいか。

    古代から現代まで、人は様々な思いで「石・岩・磐」に接してきた。そして、多大な困難を乗り越えて、人々は石、岩を扱ってきた。堅ろう故に多くの場所に残され、その意味を解き明かせないものも少なくない。
    人は「石・岩・磐」に魅せられ続けてきたのだ。

    その理由を問うことは、決してた易くないし、回答を与えることも不可能と思える。
    先入観を脱し、ただただ、「石・岩・磐」接し、見つめ、扱っておれば、なにか見えてくるもの、あるいは何かへのつながりを感じるかもしれない。
    今の僕も、まだそこには至っていない。ただなぜか魅せられ続けている。







    【武部正俊オフィシャルブログ】
    「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」

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