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  • 樹木のない「ニワ」

    「ニワ」の原初は、何もない平らな空間であった。
    何もないとは、周囲が植物に覆い尽されていようが、そこは植物が生えていない土の剥き出しの場所。

    ヤノマミ

    (長倉洋海 写真・文「人間が好き-アマゾン先住民からの伝言 より)



    上の写真には著者が「世界はまるい、だからまるい家をつくるのです。」という表題を付けているアマゾンの「ヤノマミ族」の住居。樹海にポッカリ浮かぶ島のようで、「マロッカ(シャボノともいう、円環状の家屋)」が「ニワ」を取り囲む。おそらく数千年以上、このような住まいを転々と造り続け、ほとんど変わることもなく、何も残さず、生き続けてきたのであろう。

    「マロッカ」は特殊かもしれないが、樹木が世界を覆っていた頃、このような状況が、かつて世界各地に存在していたのではなかろうか。
    この写真に「ニワ」の原点を見るような気がする。
    人がそこで生活し、常に大地を踏み叩いていないと、すぐに草木が生えてくる。
    草木の生えてない「ニワ」こそ、そこで人々が生活している証拠でもある。
    ヤノマミ族のこの「ニワ」に草木が生い茂っているのが上空から見えれば、そこはすでに放棄された場所であろう。



    ヤノマミ祭

    (先の写真と同じ本より)



    植物の侵入を防ぎ「ニワ」を守って行くのに最も有効な手段は「祭り」。
    人々が先祖と共に、大地や天の恵みを、神々に感謝する。嬉々として大地を踏み鳴らせば、そこが生活の本拠地となる。
    圧倒的な緑は、生活に必要な全てを与えてくれる。欲はなく何の変化も求めない。
    まさに「楽園」に住まう人々ではなかろうか(その楽園も、現代文明の強欲によって脅かされているようだ)。

    ここにもう一つ興味深い資料がある。
    それは17世紀に「コメニウス」によって出版された「世界図絵」という子供のための絵本。
    神から始まり、世界の成り立ち、生き物、人の始まりなどを聖書に基づいて、挿絵と説明で構成されている。そして、神によって創造された最初の人「アダム」の最初の労働は「庭の手入れ」であった、と書かれている。


    世界図絵01

    (J.A.コメニウス著 井ノ口淳三訳 「世界図絵」 より)



    「世界図絵」では人が一番初めに行った仕事は「庭の手入れ」であったとしている。
    次に「農耕」、「牧畜」、「蜂蜜製造」、「製粉業」、「パン製造」、「漁業」・・・・と続いてゆく。
    神によって「エデンの園」に植えられた樹木の手入れが、アダムの第一の仕事であったとされている。
    アダムとイブは神から禁止されていた「知恵の木の実」を「蛇」にそそのかされて食べ、楽園である「エデンの園」から追放されてしまう。「農耕」・・・・などはエデン追放後の仕事であり、それは苦役であっただろう。

    「ヤノマミ族の楽園」とコメニウスが示した「エデンの園」とは、ずいぶんイメージが違う。しかし、どちらも食べるにふさわしい食材はそこにあり、住むべき「ニワ」がそこにある。
    そこは神によって与えられたすべてが充足した「楽園」だった。ただイメージが違うだけだ。
    植物の生い茂る森と植物の生えていない「ニワ」で構成されている。



    果たして人は樹木が嫌いなのか


    人はなぜ地球上に生息しているのだろうか。
    進化論をとるのか、神による創造論をとるのか、今の僕にはその判断がつきがたい。
    若い頃は勿論科学的な進化論の立場でいたが、最近はそうとばかりはいえない気もしてきた。
    生物としての肉体と、魂とが組み合わさってこそ「人」なのかとも思っている。
    この問題には、気を留めつつもこれ以上触れるのはやめておこう。

    教科書的には、人は、樹上のサルから地上に降りた類人猿に、さらに直立二足歩行を獲得し、自由になった手で道具を操り、火を獲得して熱処理した食材を食し、脳の発達に伴い言語を取得し、人へと進化したことになるだろう。
    樹上のサルは、手足の掴む力と強力な腕力でもって、自在に樹木を上り下りし、木から木へと飛び移る能力を身につけた。
    樹上生活は、まさに天敵のいない楽園であったろう。

    一部の地域での乾燥化は、樹上の楽園から地上に降りざるを得ない状況に、サル族を追いやったかもしれない。
    次なるステップ、類人猿への進化。地上生活に適応するために、掴むことのできた足を走るのに適した足へと進化させる。
    骨盤の構造も変化し直立二足歩行が可能になる。
    直立二足歩行を確保すると、もはや樹上には戻れない。
    樹上の楽園は彼らの脳裏から消え去り、天敵と競争相手の多い地上での生活に甘んじなければならない。
    その時点で獲得したのは肉食ではなかったか。
    雑食性はより多くの食糧を確保できる。さらに火を得て、食材に熱を加えることによって、より安全に効率よく食を得ることができるようになる。飛び道具という強力な牙と、集団的統率力と知恵でもって、人類は世界中へと広がって行った。
    そして、人類の生活の中核となるのが、平らな空間である「ニワ」と僕は考えてきた。

    「ニワ」、それは定住の場所ともいえる。多くの人が一定の場所に定住すれば、当然その汚物やゴミによって汚染され、環境条件が悪くなる。
    「ヤノマミ族」などにも見られるように、それは移動によって解決される。
    あるローテーションで森や草原地帯を「ニワ」という拠点から拠点へと移動し、周辺から「狩猟採集」で食を得られた時代は、その範囲が彼らにとっての「楽園」であっただろう。

    旧約聖書にもあるように、多くの人種はその楽園を追われ、自らの手で食糧を生産するようになった。
    苦役と共に大量の食糧を手に入れ、かつ蓄えることができるようになった。
    食糧の量に比例して人口も増える。汚物やゴミの処理方法も確立される。
    未知の領域を開拓すれば、益々人口も増え力も増す。そして国が成立する。
    自然のままから、欲にまみれた社会へと変わっていった。

    いささか話は飛んでしまったが、この部分を伝えておかないと、僕の樹木への思いは伝わらないと思っている。

    欲を持ち楽園を追い出された人間は、延々と木を伐り続けてきた。
    時には森に火を放ち、全てを焼き尽くし、そこを農地に変えてきた。
    しかし切っても切っても、抜いても抜いても、樹木や草は生えてくる。
    しかもそれらは目的にそぐわない邪魔者ばかり。

    そうだ、人は根本的な所で「樹木が嫌いなのだ!」。そして「樹木は敵なのだ!」。
    さらに「樹木は恐ろしいのだ!」。

    勿論、「樹木崇拝」もある。ある特定の樹木や巨木に、「神」や「精霊」が宿り、その樹木を神聖視し、崇拝する。
    日本各地に注連縄の巻かれた神聖な樹木が沢山ある。
    これは日本ばかりではない、ヨーロッパにもあるし、世界中にある。
    「樹木崇拝」の根底に潜むのは、樹木への恐れでもあろう。
    あまりにも沢山の木を切り倒してきたことへの謝罪と、鎮魂の気持ちもそこに含まれているのかもしれない。

    ここで僕の体験を少し述べておこう。
    若い頃、山登りに夢中だった。沢登も好きで、特に大峰山系の沢登が好きだった。
    水が途切れると、ほとんどの場合、樹木の生い茂った急斜面になる。勿論道などない。
    猛烈な藪漕ぎをしながら、尾根上の登山道を目指す。この時感じるのが、圧倒的な樹木の生命力だ。
    時には岸壁に巨木も生えている。日が暮れ真っ暗になると、樹木の生い茂っている所ほど恐ろしく感じる。
    真っ暗になれば、樹木の生命力がいやが上にも増す。圧倒的な迫力に、怖気づいてしまう。
    「樹木崇拝」はこのような迫力から導かれているのかもしれない。

    直径数メートル、高さ20メートル以上の樹木が生えているような民家はまずないだろう。
    そのような樹木が生えているのは、神社や寺など特別な場所だ。そのような巨樹は生活を圧倒してしまう。

    サン=テグジュペリ作の「星の王子様」に、象徴的な樹木「バオバブ」が出てくる。



    バオバブ

    意味は違うかもしれないが、バオバブを切り倒さないと、星は爆発してしまう。むしろ、バオバブが大きくなる前に、ヒツジに食べさせてしまうのが、最善の管理なのだ。星の王子様も巨大になるバオバブ=巨樹が嫌いだった。



    樹木を植えるということ


    しかし、人は植物なしでは片時も生きては行けない。食糧の源として。
    酸素を供給してくれるもととして。燃料源として。そして、精神的癒しとして。

    樹木は植物の象徴として、一番に求められる。樹木への要求は、その住む環境によって大きく違うだろう。
    「ヤノマミ族」の暮らすアマゾンの熱帯ジャングルでは、ただあるがままで充分。砂漠地帯では、まさに「楽園」の象徴。
    樹木を生活環境に植えるという歴史は結構古い。
    エジプトでは紀元前15世紀の絵画に、植栽の様子が描かれている。



    エジプト

    (Penelope Hobhouse著 THE STORY of GARDENING より)


    王や、貴族は神話世界の楽園を、神の直系として「この世の楽園」としての「庭園」を所有し、そこに住まいしていなければならなかった。樹木はその「楽園」の象徴でもあった。
    「生命の樹」であり「知恵の木」であり、宇宙を支える「宇宙樹」でもあった。そして砂漠地帯では、心地よい影を提供し、その近くには「命の水」がある。愛でるべき花を咲かせ、良い香りを発し、美味の実を付ける。
    しかしこの楽園は、「ヤノマミ族」楽園と違い、常に手入れをしないと維持できない。それはまさにアダムが「エデンの園」を手入れしていたように。この伝統はやがてローマにも広まり、キリスト教社会にも広まって行く。
    キリスト教社会の「Garden」はまさに「エデンの園」の復活の願いが込められていたのであろう。


    樹木を植えるということ


    動物は動き、植物は動かない、まさに読んで字の如し。
    動かないはずの植物、特に樹木を、わざわざ堀上、移動させて、再び植え付けて、果たして樹木は生きてゆけるのか?
    私たちはそれを仕事としているのだから「当然!」と声を大にして言える。しかし、そのような技術が確立される以前、樹木を種からでなく、成木を移植するという発想は、どこから出てきたのだろうか。

    先のエジプトの絵画を見ても、かなり大きな樹木が手入れされ、整然と植えられている。
    すでにこの時代に植栽技術は確立されていたとみてよいだろう。
    誰がどのようにしてその技術を見出したのかは分からないが、天才的(あるいは神がかり的)なインスピレーションゆえだろう。元の生息地から、目的の場所に持ち込みたいという強い意識が、それを成さしめたのだろう。
    それは、強い強い意志だったに違いない。樹木はその意志に応じてくれたのだ。生き物を扱う技術とは、そういうものかもしれない。


    樹木を植えるということ


    樹木は生き物である。生き物であるから自ずから生きる力がある。人の側の都合に沿ってくれるとは限らない。
    星の王子様のバオバブのように、爆発するかもしれない。樹木の多くは同様の力を持っていると見た方が良い。
    元々、恐ろしさを秘めていると思っておく必要がある。
    (星の王子様はバオバブを切り倒してしまうが、また種から生えてくる。だから、次々に食べてくれる、ヒツジがほしかったのだ。)

    ではなぜそのような恐ろしい存在を、人は身近に植えようとするのであろうか。
    樹木(植物)を植える効能は、いろいろ述べられている。(ここではそこに話を勧めるのはやめておく。)
    樹木を植えるという、その根底にあるのは「恐ろしいもの、あるいは、敵」を身近に置くことではないかと、僕は考えている。

    恐ろしい敵を駆逐し排除してし、勝ち誇ってしまうと、やがて力をなくし、壊滅しかねない。常に相対する存在が必要なのだ。独裁者は、敵あるいは反対する者を粛正するのが常である。必ず最後に、独裁者にとっての悲劇が訪れる。
    それは歴史が示す事実であり、今もそれが行われている。

    現在の地球は、人類の一人勝ちのように見える。
    人類の驕り高ぶりを憂う人も少なくないが、ますます増長しているように思える。

    このような人類が最も身近に置くことが可能な敵が、樹木(植物)ではなかろうか。
    このことに気付いている国や地域はいち早くそれを取り入れている。
    それを「緑化」と呼ぶ場合もある。それは個人の住まいでも同じことだ。

    植物は実は「狡猾」なのだ。優しげで麗しい。弱そうに見えて実は強い
    。それをよく知ったうえで樹木と付き合えば、きっと得るものも大きいのではないだろうか。

    僕たちは仕事上樹木や植物の良い所ばかりを並べたがるが、その根底にある、恐ろしさも知っていなかればならない。





    【武部正俊オフィシャルブログ】
    「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」

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